日本共産党 新座市議会議員 小野だいすけ
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小野だいすけ物語
研究熱心な虫大好き少年
研究熱心な虫大好き少年

 1979(昭和54)年に、両親とも教師の長男として世田谷区に生まれ、2歳のとき新座市石神に引越してきました。
 子どものころのだいすけは、「虫博士になりたい」というほど虫が大好きな少年でした。夏休みの研究では、カブトムシを卵からかえして成虫になるまでを細かく観察して発表したり、アリ地獄に興味を持って、砂をかけてアリを捕ったり、食べかすを巣から放り出す様子などを、一日中見つめていることもありました。
 大学生になっても、大クワガタを特殊なキノコの菌種で育てる技術を使って、普通は3年くらいで成虫になるところを1年で育て上げる技術を駆使するほど、研究熱心なだいすけでした。

キャッチャーで4番 野球もひとすじに
野球少年

 そんなだいすけは家に引っ込んでいるだけの少年ではありません。小学生のときは少年野球「石神ビクトリー」で、中学では野球部で県大会で優勝するほどで、高校でも軟式野球のキャッチャーで4番を打つ中心メンバーとして県大会での準優勝もするという野球少年でもあります。野球への情熱はつづき、大学生のころからは、草野球「新座モンスターズ」の監督として、今も野球に親しんでいます。だいすけは「キャッチャー出身で監督、ユーモアと野球への情熱あふれる野村監督が尊敬できる」と語ります。

弟おもい・・・
弟と

 だいすけは、4才はなれた次男と、14才ちがいの三男との三人兄弟。「生まれつきこどもがすき」というだいすけは、二人の弟の面倒を良くみる子でした。特に、年の離れた三男とは、「兄貴というより親みたいな感覚だったかも」というほど、寝る前に本を読んであげたり、オヤツをつくって食べさせてあげたりしていました。
 だいすけは話します。「虫が好きだったり、子どもが好きだったりという自分を見つめてみると、”命ってなんだろう”というようなことを思っていたんではないかと思います」と。

父と母・家庭のこと
 教員で共働きの両親。小学生のだいすけは学童保育「しろはとクラブ」に通っていました。たくさんの友達と秘密基地を作ったり、黒目川で魚を追いかけたりと、楽しく遊んでいました。
 お父さんは、仕事をし、労働組合の運動の中心で活動し、学童クラブの運営委員会などで、毎日忙しく、毎晩遅くになって帰ってきます。
 お母さんは、そんななかで「いつもビリビリしている感じだった」「好きだけど、遊びたいときも弟の面倒見なくてはいけないというのが辛かった」とだいすけはふりかえります。
「いのち」につきぬ興味と疑問 生命科学に学ぶ・・・しかし
 高校を卒業してだいすけは、「生き物はなんのためにいるの?」という、子どものころからの”疑問”を解くためかのように東洋大学の生命科学部という、遺伝子などを研究する学部にすすみます。大学院まで一生懸命勉強しましたが、生命の仕組みや起源は解けても、「なんのために」の疑問は解決することができませんでした。
悩み・・・そして「人のためになる人生を」
 思い悩んだだいすけは、トルストイの「人生論」や仏教の本、宮沢賢治や芥川龍之介、宮本顕治から司馬遼太郎まで、いろいろな本を読みあさります。そして『いま生きている自分たちがどう生きるか』だと自分なりの結論を得ることになり、「人のためになる人生を送りたい」「困っている人を助けたい」と強く思うようになります。
学び・社会に広がる視野
 大学を出て、人と情報を交換し合うことが大事と、通信会社に就職しただいすけですが、人と接する仕事がしたいと退職。そのころ民青同盟を知って加盟し、仲間と社会のことなどを学びあううちに、一部の国や人の利害のために起こる戦争、大企業が大儲けをしてるのに社会的弱者や貧困が生み出される社会のことに視野が開かれていきます。
児童養護施設に就職 平和・福祉守る日本共産党へ
 「人の役に立てる仕事を」と児童養護施設に就職すると、そこには虐待によって施設に入った子が七割にも。「なぜ?」の疑問が大きくなり、毎日、胸が引き裂かれるような悲しいおもいにおそわれるだいすけ。
 「親も子もがんばろうとしているのに、こどもにしわよせされるのは、貧困や重労働で疲れさせられているなど、この社会の問題ではないだろうか」と気づきはじめたとき、日本共産党の一員にと誘われます。
 「正直言って、子どものころの両親や家庭のことなどが重なって、そういう運動に身をおくことにはちゅうちょした」というだいすけですが、日本共産党がいっかんして戦争に反対してきたこと、福祉を大切にと、社会的に弱い人の立場でがんばっていることなどを知って、「一人ひとりは弱くても、みんなで力をあわせてこの力を大きくしてこそ社会を変えることができる」と、だいすけはすすんで日本共産党の一員に加わりました。
「ここでがんばる」
保坂さんからバトンタッチ
保坂さんからバトンタッチ

 市議会への挑戦を請われただいすけは「弱いものいじめの政治は許せない」と快諾。1000人近くの人と会って話を聞きました。「石油が高く、200円出して2階・3階に運んでもらうのも経済的にたいへん」という団地のお年寄り、「税金が高くなって、働いても働いてもくらしがもたない」という人・・・「話せば話すほど、知れば知るほど、”ここでがんばらなければ”という思いが強くなりました」とだいすけ。保坂フミ子さんからバトンタッチし、2008年初当選しました。

市議会議員として
「原発ゼロ」緊急行動に市議団で参加
「原発ゼロ」緊急行動に市議団で参加

 市議会議員となっただいすけは、「青年の貧困対策」「若者が楽しめるフットサルコートの設置」「児童虐待への対策強化」「高齢者が暮らしやすい街づくり」「市の平和事業の推進」「中学生までの医療費無料化」などを求めて市議会で一般質問。
 『中学生までの医療費無料化』『フットサルコートの設置』『市の平和事業の推進』などが、市民の皆さんと力を合わせて実現しました。
 震災後の市議会では「家具転倒防止グッズの配布を」「放射能対策の強化」などについてとりあげ奮闘しました。

市役所に非核の懸垂幕 小学校の除染を確認 震災ボランティアに参加
市役所に非核の懸垂幕 小学校の除染を確認 震災支援ボランティアに参加
市民の切実な要望を取り上げ建設的に提案
 市議会議員として2期目となっただいすけは、超党派の市議で運営する「脱原発にいざ市民の会」に参加して脱原発ウォーキングに取り組みます。(脱原発ウォーキングは2020年2月で45回目に!)
 2014年6月議会では、党が発表した「ブラックバイトから学生生活を守ろう」の提言を市長に手渡し、「ブラックバイトによってやめざるを得ない学生を出さないためにも対策が必要」と提案。市のゆるキャラ「ゾウキリン」を使った啓発ポスターが制作され、市内にある3つの大学で掲示されています。
2015年12月議会一般質問
2015年12月議会一般質問

 さらに2015年12月議会の一般質問では、啓発ポスターをほっとプラザなどの若者が使用する施設で貼りだすことや、護身術啓発チラシを作って成人式などで配布すること、困っている若者のために労働相談窓口を設置することも求めています。

 また、地域の方々のバスを通してほしいという強い要望を市議会で取り上げ、北野・野火止5丁目地域に3つのバス停が設置され「にいバス」が通りました。

脱原発ウォーキングに取組む ブラックバイトと学生生活考える 啓発ポスター
脱原発ウォーキングに取組む ブラックバイトと学生生活考える 啓発ポスター
市民の願いにいつも全力! 市議会議員3期12年
 市議会議員として3期目となっただいすけは、台風や大雨による市内の浸水被害を取り上げ、被害状況や原因と対策について質問し、対策の強化を求めました。
 また、「老朽化した第二老人福祉センターの建て替え、『にいバス』の延伸とセンターへの乗り入れ」について何度も議会で取り上げてきました。その結果2020年1月、第二老人福祉センター『元気の里』は1・5倍広くなってオープンし、「にいバス」の乗り入れも実現しました。
にいバスが「元気の里」に乗り入れ 第二老人福祉センター「元気の里」オープン
にいバスが「元気の里」に乗り入れ 第二老人福祉センター「元気の里」オープン
「大輔」の名前を誇りに
街頭から政策をうったえる
街頭から政策をうったえる

 「毎日をつつましく暮らしているおとしよりに厳しい現実に怒りを感じています。お年寄りが、明るく元気に外に出てくらせるまちでこそ、若者もいっそう生き生きと成長できるはず。大輔という名前の由来は、”ひろく(大)たすける(輔)”だと教えられて育ちました。名前に誇りと使命感をもって、安心して暮らせるまち、みんなが笑顔で暮らせるふるさと新座にするために、力いっぱいがんばります」
− 小野だいすけのやさしく熱いエネルギーがはじけます。

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